阿波和紙会館では、いんべの名勝を紹介しています。

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旧久宗鉱山
川田川が平地に流れ出る左岸にうず高く積み上げられた廃石の棄て場に沿うて山麓を南へ少し登ると,コンクリートで閉ざされた坑口や機械をすえてあったらしく油でよごれた土間のバラックなどが,梅畑の間にちらばっているのが見られる。ここが久宗鉱山の廃坑である。
 坑口から北東へ50メートルばかりのところに小さな住宅があり,その前に記念碑が立っている。その記録によると,久宗鉱山は明治25年(1892)岡山県人青木鹿次が佐藤文彬より鉱業権を譲り受け,採掘を始め明治40年(1907)4月鉱業権を他に移譲したと記してある。即ち,明治40年徳島鉱業株式会社に経営が代わり,昭和12年石原産業株式会社に,昭和25年高越鉱業株式会社にそれぞれかわっている。
 なかでも,石原産業の経営になってからは,川田山鉱山(名越鉱山)と合わせて操業し,従業員は三百数十名にのぼり最も繁栄した時期であった。しかしながら,代々の経営者は有害物質の排出をほとんど野放し状態にしたために附近の住民に公害を与え,長期間にわたって住民の公害闘争をひきおこした。すなわち,操業をはじめた明治の時代には採掘した鉱石を現地で野焼にしたために,亜硫酸ガスによる煙害により山は草木が枯れて赤茶けたはげ山となってしまった。
 また,附近の住民の中にはガスのために,喘息などにかかる人が多く,また雨水や坑内水により硫酸や銅分を含んだ水が用水や地下水に浸透し,そのために農作物はとれず,井戸水も飲めなくなった。これを問題とした住民は組織を作って鉱山経営者とかけ合う一方,東京までも出向いて当局へ公害に対する行政処置を訴えるなどして公害防止に努力した。
 鉱山では鉱水に石灰を加えて中性にすることや、精錬のために出る煙を山上に大煙突を建設し、煙害をへらし、鉱山を横切る用水路を暗渠にし、鉱水の流入を防ぐことを実行した。しかし、鉱山が操業を停止するまでは,これらの問題の解決することはなかった。
 今に,鉱内水は赤茶色の沈澱をみぞに残しながら、川田川に流れこんでいる。