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芳川顕正伯の生家
芳川顕正伯は、明治時代に内務大臣・司法大臣・逓信大臣・文部大臣等、政府の重要な役職につき、特に文部大臣時代には、教育勅語発布の功労者として、山川町の誇る第一人者である。幼名は賢吉といい、後に「越山」と号した。天保12年(1841)12月10日旧川田町に生まれた。芳川伯の生家は、祖父省博、父民部とともに代々医者を業としていた。顕正伯自身も、藩の医学生として長崎に留学した。
 そして、蘭学を修めるとともに、政治学を学び、明治、大正時代の政界の要人として、日本を背負って立つ人々の中でも、特に光った存在となって活動し、最後は当時の枢密院副議長までもなった。
 また、吉川伯が郷土のために尽くした大きな治績として、吉野川の改修工事をあげることができる。当時の金で1,000万円の費用を要した困難な大事業であった。それ以来、吉野川流域は毎年の洪水から救われ、今日に至っている。
 この芳川伯の生家は、山川町字北島の地に現存していて、町有として原形のまま保存されている。生家の周囲には、西と北に生垣とエノキの大木があるが、これは、この土地一般の家屋と同様に冬季のめのものであろう。家屋は約66平方メートルほどの母屋だけである。多くの農家は納屋をもっているが、医家としてはその必要はない。
 特に、一般民家と異なる外観は、南正面間口1.8メートルの玄関をつけてあるが、これも当時の医家としての、構えと思われる。
 教育勅語発布50周年記念に当たり、芳川伯の偉業をたたえる一つとして、生家およびその遺品をここに集めて保存してある。また、軒下には、おかごもつるしてあり、その当時の面影をのこしている。
地図