阿波和紙会館では、いんべの名勝を紹介しています。

一覧に戻る          トップへ戻る
吉野川
高知県に源を発している吉野川は194の支流を集めて,実に延延23キロにわたり,四国山地に沿って東に流れ,紀伊水道に注いでいる。その流域は四国4県におよび,流域面積は3750平方キロの広がりを持っている。本町の中心部を占める平坦地も,その流域の一部であり,また吉野川は,本町北部の境界線ともなっている。
この吉野川が大河として大きく開ける所は,高越山の北の山裾に突起している種穂の山をめぐって,岩津橋をくぐる所からであり40キロにおよぶ吉野川堤防も,旧川田町を起点としている。
 この吉野川,川田川の合流によって,拡がった瀬詰地区の広い平野は,本町の重要な平坦部であり,肥沃地となって,町民によい居住地と耕作地を与えている。また,吉野川は,河川交通としても,早くから利用され発達してきた。阿北の奥地への人の往復や物資の交流には,古くから東西に流れている吉野川の水運を利用していた。三好郡川口から徳島までの間,吉野川を上下する船や筏は山川町の昔の船戸・北島浜・瀬詰浜などに発着し,ここが物資の集散地となっていた。

 各種の船が上下し,その数は百数十隻を数えたが、昭和初年頃吉野川の改修工事によって「第十堰」が造られたため、帆かけ舟は姿を消した。
 ところが,鉄道が開通したため,貨物輸送は鉄道の方に移り、しだいに船つき場もさびれていった。このように、農業、水運などに,きわめて重要な河川として,大きな恩恵を与えて来たく吉野川も,一方では数限りない水害を祖先に与えてきた。地名にも瀬津・瀬詰・落久保・流など水にちなんだものが多いことは、吉野川とともに暮らしてきたわが町が,古くから水に生き、水に悩まされてきたことを物語っている。水位も明治41年(1908)には瀬詰八幡神社の床上に浸水したことをはじめ、多くの水害の歴史か残っている。
 しかし,大正15年(1926)改修工事が完成してからは、水害の心配も少なくなり,生産も増加し,現在のように人々は安心して豊かな生活ができるようになった。