阿波和紙会館では、いんべの名勝を紹介しています。

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忌部山
山瀬駅の東南方,旧山瀬町,山崎の南側に連なる小山一帯が忌部山と呼ばれている。苔むす180段の石段を登りつめると,天日鷲命をまつる国幣中社忌部神社がある。
 古い地名辞書によると,現在忌部山といわれる地域は「旧山崎村字大東及び学村の一部にまたがる山地」とあり,忌部山の地名は,単に世間一般に呼ばれている呼び名ではなく,地字の名称として,現在も町役場の土地台帳に明記されている。
 なお,古書によると忌部神社の境内,3里四方のうちを内山,境内,3里四方の外部を外山といわれている。忌部山は,大昔,阿波の開祖,忌部氏が住みつき,川に漁し,麻を植えて開拓したいわれのある山である。この山は高燥にして地味が肥え,吉野川の氾らんの害もなく,麻の栽培に好適なこの地方に忌部族が定着し,やがて平地へ進出,開拓をすすめていったことも,もっともとうなずかれる。今でも,当時の忌部郷の名残りをとどめる遺跡・遺物や,これにともなう口碑伝説が非常に多い。なお,忌部山頂に大きな横穴式古墳3個,忌部旧社地に4、5個の残がいを残しているが,いずれも奈良朝以前のもので,山川町にとっては、好適の史蹟の記念物である。
 また,忌部山の一渓谷を「土器谷」と呼んでいるのは「土器製造である忌都民が,日常使用するものや,
忌部神社の祭器を作ったためであろうと思われる。
 これらのことから考えてみても,この忌部郷こそは忌部氏の居住した地域とみられ,徳川末期の「大日本史」にも「今の山崎村に忌部山あり,小島の西にあり,忌都連のいた所」と記している。
また,阿波藩の編集した「阿波志」によれば「忌部山は、山崎村にあり、すなわち忌部神社の所在する所」
としている。
 なお,忌部山は景勝にもすぐれ,山頂より吉野川平野が一望のもとに見渡され,ことに東側の南北につづく平たい尾根は「岡の妨」と呼ばれ,月の名所として有名で「月見が丘」の別名がある。これらのことから,忌部山は忌部氏最初の定着の地として、郷土の歴史をたずねる上で,特筆すべき重要な山であろう。
山川町教育委員会