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石本叟の墓碑
明王院境内の他の北側に,南向きで池を見おろして建てられた高さ約2メートルの石碑がある。これが石本受の墓碑である。この墓碑の石は東北地方の産で,暗緑色の表面が敵密な角閃岩であり,本県には産しないめずらしい石である。
石本叟は安永元年(1772)9月20日に生まれ,弘化2年(1845)5月7日に74歳で没している。受は新山開墾の功労者であり,その功績をたたえて,その子政与が明治元年(1868)冬11月に建立
したものである。
この碑には上部に「石本叟墓碑銘」と刻まれており,下部には千字余りの漢字で碑文が刻まれている。碑文は漢文で書かれているため読みづらい。しかも石が硬質のためか,刻み方が浅く拓本にもとりにくい。碑文の中に繋が新山を開拓した時の歌一首と,辞世の歌が次のように記されている。
「開拓の時の歌」
秘登等倭奴 志婆濃阿美戸乃 於起婦志仁
称佐女嘉多露宇 安幾師柯能古恵
「辞世の歌」
阿幾倶佐仁 能保留宇起与乃 須衛濃都遊
茂登廼志津久斗 計左嘉恵里家利
また,碑文の終わりに次の絶句(漢詩の一体で一首が四句からなるもの)が記されている。
「教及隣里 歯徳自尊 惟是真実 永貼児孫」
そして最後に,東京の石工,下田喜成が字を刻んだと書かれている。なお,石本叟の後裔(子孫のこと)は山川町字矢落30番地の石本敏夫である。この石本家の下の道路端に筆塚と呼ばれる塚がある。
おそらく,叟が勉学に使用した書道用具を埋めて塚としたものであろう。
山川町教育委員会