阿波和紙会館では、いんべの名勝を紹介しています。

一覧に戻る          トップへ戻る
青木城跡
 徳島本線山瀬駅と山川駅の間は、南側の台地が鉄道までせまり、この台地に青木部落がある。ここに市原(礫原)氏の青木城があった。青木城については「阿波古城記」および「城跡記」には瀬詰城と書き、「阿波志」には喜来塁と書いてある。
 これは、この地がもと川田村66名のうちの喜来名であったが、瀬詰村の領主市原岩見守が大塚二町地を川田村の領主土肥因幡守に渡してこの地と交換してもらったものである。
 市原氏は、足利尊氏に従い、軍功をあげ、阿波に入国した富岡城主新開遠江守道善の分れで、もとは土肥氏であったが、この地へ釆てから市原と名乗るようになった。
 市原氏は石見守兼行以来、造酒正兼胤に至る180年間瀬詰を領していたが、天正7年(1579)造酒正は、その主土肥秀実の死に殉じて、川田山で自害したと伝えられている。城跡は現在では墓地となり、掘も青木大師教会(天明年間大師庵として建立され瀬詰城守護仏であった。昭和16年6月教会に昇格している。)西側に一部を残すだけで、ほとんど埋められている。土地の人の話によると、城跡を開墾した時、刀剣・器具類が出たとのことである。昭和9年3月弘法大師入定1100年御遠忌記念として、城跡一帯に四国88か所の仏を祭ってある。また中央一段高い所に城主神社と呼ばれる小きい祠があり、青木城主を祭ってある。青木城のあった所は後方が山地で、前方は断崖絶壁となり、すぐ下を旧川田川が流れ、瀬詰一帯を見おろすことができる。城を構えるにはまことに恰好の場所であったと思われる。
青木大師庵近くの墓地に義民利右衞門(篤実院浄心義徹居士)と、相撲取り急波清五郎(そぞろなみ)の墓がある。
地図