阿波和紙会館では、いんべの名勝を紹介しています。

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山崎忌部神社
山瀬駅の東南約1キロ,忌部山の中腹に,阿波忌部の祖神とされ天日鷲命をはじめ、神言?女命、天太玉尊、神比理能売命、津昨見命、長白羽命、由布洲主命、衣織比女命を祭る山崎忌部神社がある。
170段の石段を登ると,昭和43年に改築された美しい鉄筋コンクリートの社殿がある。甲和45年に国営パイロット事業の道路が境内を通り,今では自動車で行くこともできる。
 当社は,苦から現在地にあったのでなく,黒岩といわれる所にあったが,応永2年(1384)秋の大地震で社地が崩れ落ち,現社地に祭られるようになった。
 忌部神社については「延書式神名帳」にも記載されており,明治4年(1871)には,国幣中社に列せられている。しかし,その正蹟について神社間の争いがあった。
 種穂神社を本宮とした時もあったが,国幣中社になった時は,山崎忌部神社に祭られていた。また,明治14年(1881)には西棟山村吉良名御所平に遷され,その後明治18年(1885)には名東郡富田浦町(徳島市)に遷されて現在に至っている。
 池上徳平著「国幣中社忌部神社正蹟考」の中で,地理的考察,文献記録,遺跡遺物,口碑伝説等あらゆる方面から考察して,忌部神社の正蹟は山崎の地であると述べている。
 大正,昭和の大嘗会には,山崎忌部神社の境内に織殿を建て,荒妙を織って貢進したのも,忌部氏が阿波に渡り,穀麻を栽培したことによるもので,現在阿波,麻植両郡だけに締着の行事があり,子供が生まれると,初めての冬に新しい着物を作って宮参りしたり,ご馳走を作ってお祝いするが,これも忌都民
が衣服を調製したことに因んだ故事であろう。
 当社は天日鷲神社,忌部大社,麻植神など呼ばれたが,昭和43年4月27日から山崎忌部神社と呼ぶよう決められている。
平成2年木屋平村と山川町が平成天皇の大嘗祭にあらたえ貢進をなすところとなり、麻は木屋平村あらたえ貢進協議会が栽培し、織布は山川町あらたえ貢進協議会が、山崎忌部神社本殿で行い、平成2年(1990)10月30日、両会は新た絵を宮内庁へ供納した。
山川町教育委員会
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