阿波和紙会館では、いんべの名勝を紹介しています。

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井上城跡
高越山麓の台地に井上部落があるが、ここに井上城があった。地形から見て、天険を考えた山城式築城であったと思われる。
 城跡に「土肥右衛門尉源昌秀」および「土肥紀伊守源朝臣庸吉」の墓がある。
 川田井上はもと小笠原氏の所領であったが、後に細川頼有の領するところとなり、細川元常の時に代官谷氏が京都の上屋形に背いたので、土肥綱真に討たせて、土肥氏が移ってきたものである。「阿波志資料書」に「土肥因幡守源綱真初与七と称し、父秀行と共に讃岐国神崎城に居住し、後の天文年間中川田井上城に移居した云々。」とある。綱真には房実、康信、秀実の三子があったが、新右衛門秀実は、天正7年(1579)脇城外に長曽我部と戦い戦死している。天正10年(1582)長曽我部元親が阿波を統一して、井上城は落城した。近くの明王院は土肥氏とは深い関係のあった寺院で「阿波志」によると貞和年間(1345~1349)に土肥氏が杏光院とした記録がある。
井上城の周囲の山々には、城の丸(城の西南)、花の丸(城の東)猪の丸(花の丸の東)等の見張り場があり、また、城の近くには、柳の井(城の東)、閼伽井(あかい)の水、、狒々(ひび)の清水があって、守城の要になっていた。しかし、柳の井は現在は涸れたが、閼伽井の水は浅い泉として今も残り、狒々の清水は地所の擁護工事のため、泉の型は全くなく、ただ小水路に水が流れだしているにすぎない。この泉の水は特に良質であったため、国守が巡回して庄屋宅に宿泊する時は、この清水を三日前から清めて使用したことが、川田名跡志に記されている。

 土肥氏の知行については詳らかでないが、川田・川田山・拝村などを領して、相当な勢力があったものと思われる。今も金山小路、小川小路などの名が残って、城下町が栄えていたことを物語っている。
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